先週の後半から今日にかけて

ここ数日、気分がよくなかった。演習の点数がよくなかったり、以下に示すようないろいろがあったりした。なかなか気分が乗らないので、書き出して気持ちを整理する。今回はとくにとりとめがない。ブログ何書こうかな、とか、どのブログに書こうかな、とかでなかなか進まず、こうして平日の夕方に書き出すことになってしまった。日記帳に書くのが理屈としてストレスフリーなのに、そうできなかったのは理由がありそうなのでまた今度考える。


土曜は歩きながら人と長いこと話した。お疲れ様でした。自分も疲れた。帰りに本屋に行った。気になっていた参考書を見てきた。シオランなど面白そうだったけれど、結局何も買わなかった。図書カードとQUOカードの処分にとても困っている。中学の卒業祝いかなんかでとても古いので、オンラインの書店で使えないのが痛い…。

日曜日は一日中ぼんやりしていた。目覚ましを掛け忘れて起床が遅くなった。疲れてたのもあるからそれ自体は問題ではなかった。電気系の専門教科をちゃんと勉強しようね、という気持ちで机に向かった。ほとんど捗らなかった。普段は作業25分・休憩3分のポモドーロを回している1のに対し、この日は作業15分・ぼんやり15分ぐらいの感覚だった。普段からそれほど集中できるタイプではなくても、比較対象があるとこのように表現できる。

しばらく数学の問題集をメインにやっていたのに試験勉強の割合が増えて戸惑っていたんだと思う。どうしたもんかなあ…。


対面授業になってから、全般的な調子を計るバロメータが増えた。数学の授業である。

数学系科目には、離散数学と応用数学の2種類がある。環境の違う人にとっては馴染みのない話になるが、まあ誰も読んでないだろうし、気にせず書く(科目名は環境の区別として使うだけだし)。

離散数学はやや広い教室で行われる。同時に受講する学生は同じ学級の人のみ。講義内容が抽象的で疑問を生みがちなのと、教員が不人気で学生が良く食いつくから、全体的に活気がある。数学の得意な人たちの集団はちょっと後ろにあるので、会話には参加することがほぼない。この授業中に、その集団の話し声に対してどれぐらい敏感になるか(耳障りに思うか)がバロメータとして機能する。

応用数学はもっと広い教室で、いくつかの学科2の学生が一緒に受ける。こっちではその集団はすぐ背後にあって(やっぱり活発に議論している)、わかんないときは聞いたり、関係ないタイミングで適当に話したりする。ここでは、さっきの会話への敏感さに加えて、そういう会話への参加の度合いがバロメータになる(というか、耳障りに思ったら参加しない)。

話し声そのものはいつも同程度なのに、それに対する自分の気分の反応が毎回違う、ということはどのシーンでもある。ただ、毎週発生して、なおかつ気分の反応の変化の度合いが顕著に現れるのがどうもこの2科目らしい。

その変化の度合いの違いがどこから来るのか。数学が得意な人が多いから活気があること、教室が替わって学生の空間的な配置が変わることがパッと思いつく。しかしそれだけではない気もする。数学への個人的な苦手意識が関係しているのかも。高専だから当然ではあるのだけれど、数学・物理が得意な人が多いことをこの数日間で改めて実感した。参考書なんかを一歩一歩解説を読みながら進めていても、ひとたびそういう人たちがやる気になればバイクに乗って追い越していくんだろうか。そんなイメージが浮かんでくる。


試験前の授業は先生がちょっと時間を余らせて自習とか質問の時間にしてくれる。今週の木曜日から期末試験だから、今日の電磁気学の授業は自習+質問の時間だった。気分がよくなかったので、まあ教科書のやさしい部分を1章分ぐらい読み直して、真面目な勉強は自室でやろうと考えていた。その結果、3行ぐらいしか読めなかった(分極はPで表すんだって、あはは)。

自習の時間は互いに相談したり、教員に質問したりする声が飛び交うから、ある程度効率が下がるのは予測していた。で、今回はそれがかなり顕著に出てしまった。あちゃー。4,5ぐらいの集団の会話が3秒ごとに交替しながら脳のバッファにデータを流していく感じでつらかった。だから、そういうときにスパッと諦めて切り替えられるのはいいなと思う。そういうことを想定して(脳のリソースを使わない)英語系の教材を持ってきてはいたのに、「一応電磁気の時間だし、磁界の勉強しなきゃな」と考えてしまった。結局勉強はできなかったから、それでまたちょっとへコんで、こうやってブログに書いたりぼんやりしたりするために時間を消費することになる。ため息が捗る。

もともと講義を受けるのが好きじゃなかったのかもしれない。専門科目や物理・数学に顕著なのだけれど、授業を聞いているよりも、演習問題と解説を見て理解しようと一人で努めるほうがよくわかる感覚がある。授業中にわからないことがあっても、それは結局自分のそれまでの範囲の理解が足りなかったり歪んでいたりすることが原因だから、そこを直してやれば自動的に納得がいくケースが多い(大雑把な性格なので、ある理解を応用する場面になって初めてその理解の不足に気づきがち)。ただし、授業中に質問するときは、(理解の前提ではなく)その事項そのものについて話してもらうことになりがちだし、そもそも文字に残らないからすぐ忘れてしまう。塾の授業は聞いていて勉強になるのがよくわかったのだが、どうしてそう思っていたのかは、さすがにもう思い出せない。


気分がよくないときに、ちょっとした被害妄想を抱いて人間不信気味になることがある(文字にするとどうも実際の感覚より深刻なイメージが出てしまう…)。その状態で人と話すと、そういう被害妄想が表情や会話のトーンを通じて相手に漏れてしまっているのではないか(しかしその被害妄想が一時的なものであることまでは読み取ってもらえていないのではないか)と考えて不安になる。漏れてしまっていても、わざわざそれを言ってくれるはずもないので(人間不信気味だからこの論理展開が自然に思えてしまう)、自分には知る術がない。さらに不安になる。

そういう現象が起こっている、ということを今回初めて知ったばかりだから、対処法もわかっていない。できる限り人と話さないようにして、何かイラッと来てもこっちの問題だと捉えて深呼吸した。「こっちの問題だ」と捉えるのは、何かを我慢しているようにも読めるがそうではなくて、「こっちの問題だ(だから、自分の体調を整えれば解消できる)」というポジティブな考え方として使った。


知り合いの中にも、案外辛辣な人がそこそこの割合でいることに気づいた。技術力はあるのに、粘着質というかなんというか、あまり見習いたくないような振る舞いをする人もいて残念になる。そういうのってSNSとかオンライン、大人数がいるオープンな場ではわからなくって、閉じた場になって初めて見える場合があるということがわかった。ただ、一度クローズドな場でそういう振る舞いが見えてしまえば、その人のオープンな場での振る舞いにも特徴があることに気づいて、それを他の人のオープンな場での振る舞いと照らし合わせることである程度予測がつけられるようにも思える。


誰かに配慮しながら行動したり文章を書いたりすると、その誰か(集団ないしは個人)について自分が配慮に使っている価値観が内在するようになって、元の考えや考えから生成される文章に影響してくる。普段は社会性フィルターやGANの生成者と評価者のようなバランスで、配慮のできた文章を書くことができる。ところが、いまはどうも干渉が強すぎてちょっと書くたびに批判的な考えが浮かんでくる感じがあって気が重い。すいませんすいません。だからといって「にゃーん」で済ませたくはない。それだと考えの整理に寄与しない。


インターネットを楽しんで使うには、もっと工夫が必要だな〜と感じるようになったのは2年ほど前のこと。最近はそういう感じが確信に変わってきている。一応プログラマの端くれだし、インターネットでプログラムは重要な立ち位置を占めるから、「〇〇を見ないようにする」など一人のユーザの意志としてではなく、「〇〇を見なくてすむ仕組み」を利用する形で工夫したい。ただどうしてかそういう工夫が転がっていない(探して見つけ出すのが難しいのもある)。やはり自分で作って、似た感性の人と共有するしかないのだろうか。

優秀な頭脳や計算機リソースが、ソシャゲの広告に注ぎ込まれているのを見ると複雑な気持ちになる。読んだ本の影響を受けたなあ3


ちょっと前の哲学書を読んでいると、得る感覚4が健常者より少ない、という意味で「盲人」という表現がちらほら見受けられる。読んでいてこの言葉に遭遇すると、とっさにポリコレ的な文脈で言葉遣いを考えてしまう自分がいる。「盲人って使っていい言葉なんだっけ?」と。まあ考えること自体は望ましいことなのかもしれないが、ちょっと窮屈にも思える。ちなみに日本視覚障害者団体連合のブログは少なくとも2014年までは「日盲連」と名乗っていたし、国会図書館によれば「盲人」は差別用語ではないらしい。


気分がよくないことへの即応的な対処としては、頭が良くなった気になれそうな本を読んだりニコニコで適当な動画見たりするのが便利。長いエピソードは敬遠している。ブログを書くのはそれらに比べるとスピードに劣るが、後々ドキュメントとして参照できる点が強い。なんか満足感もある。

明日はもうちょっとマシになってほしい。基本的に寝ると治るタイプだし、まあまあ…。


  1. 休憩はタイマーの上では短めにしてあるが、どうせ「勉強したくないよ〜」とか言って駄々をこねたり急にトイレに行きたくなったりするので、実質的な休憩時間は本家ポモドーロと変わらず5分程度なのだ

  2. これを「数個」「数時間」のノリで「数学科」と書いて、あれ?となった

  3. こういう話をすると議論に持ち込まれて負かされそうな気がするので、本のタイトルは書きづらいが、ブレグマン『隷属なき道』。

  4. ラッセル『哲学入門』なら「センスデータ」