「批判の文化」とその反応を読んで

「批判の文化」エントリとそれに対する反応をTwitter等で見てしまって、いろいろだるくなったので吐き出す。はてなブログに書くと元記事にトラックバックが飛んでしまうので、こっちに。内容的には関係ないからね。パス名に cult-of-criticism と入れているのは culture と cult をかけているただの言葉遊び。スペルも意味もなんか似てるなーととっさに思いついた。

もとの記事は1回斜め読みしただけ。画像が多くて嫌になっちゃった(適当なアイキャッチ画像なら無いほうが良い)。少なくとも、開発者の人格批判をやめるべき、というのには同意する。

いろいろな反応のツイートがある。まず、「欧米はもっときびしいぞーフツーに批判されるぞー、これだから純粋なヤツは〜」系。もともと一人が見える欧米の範囲なんてたかが知れているし、それはツイート主も元記事の筆者もそう。筆者の観測範囲ではあまり批判がなくて(モチベーションを削ぐことがなくて)、ツイート主の観測範囲にはガツガツ批判するチームが多かっただけ。いわゆる主語デカ杉問題に分類されると思う。それを認識した上で「かもしれない」とタイトルについているのかもしれないが、それだけでは指摘をかわすことはできない。

次に「批判じゃなくてそれは非難だー」系。他人の言葉の定義にいちいち目くじら立ててたらキリがないんじゃないすか?とりあえず元記事の筆者に浮かんできた、@HiromitsuTakagi氏のツイートなどを象徴するのが「批判」というワードだっただけではないか。たまたまそこで使っているだけで、その「たまたま」の結果は人・文脈によりまちまちである。「欧米」の範囲も単語の側面でみれば同様で、とりあえず「筆者がみた周りの日本のチーム」を「欧米」にマップしただけ。こういう簡略化は文章を簡単にするためには必要なものだと思う。

プログラミング的な例えをすると1、@HiromitsuTakagi氏のツイートに貼られた「批判」はラベル(変数名)。「批判じゃなくて非難だ〜」という人は、「非難」というラベルをそのツイートにすでに与えていて、記事を読んでコンフリクトを起こしてしまった(順番は逆になりうる)。このようなラベルはたいてい無意識的に・なんとなく付けられるので、ダックタイピングに例えられると思う。「この黄土色でサクサクした甘い食べ物は…前に食べた『クッキー』と似てるなあ。じゃあこれもクッキーだろう」という調子で。逆に意識的にラベルを付ける例には、数学の用語がある。

これを回避するには「スコープ」が使える2。すなわち、「批判」は元記事をスコープに持つラベルで、他人の文章や思考ではスコープが別だからまた別のラベルを与えることができる。「非難」でも「中傷」でも好きな名前。

で、別のスコープのラベルを見るときには、当然そのスコープ内でのラベルは何に与えられたものか見る必要がある。たいていの場合は読者の語彙(ダックタイピング的に獲得した「定義=物事とラベルの対応」のかたまり)を使って解釈を進められるが、あまりに定義が異なっていたり、重要なラベル(記事では「批判」)についての意味が異なっていると違和感を生じる。個々人が持っている語彙はそれぞれ違うので、これは自然なことである。その場合はそのスコープでのラベルの定義を引っ張ってきて(再度ダックタイピングを行って)解釈を再度行えば、普通に読める。ただし、一般的な言葉については定義は暗黙的に示されている場合が多い3ので、読者がすくい上げることになる。

もしくは「批判」に「私はこれを『批判』と考えていて」とか「私の考える『批判』は」とスコープを限定する言葉を毎回くっつけられないことはない4。とはいえこれはくどい。JavaScriptでthisを付けるか付けないか(例えおかしい?)と同じように、文脈によってスコープを限定する言葉は必要になるが。個人的にはそもそも「スコープ」の区切りを読み手が考えた上でラベルを貼り直すほうがラクだと思う派。

自分も記事中の「批判」にははじめ違和感を覚えた。以下の数文について。

「誰に責任がある」とか「こうすべきだった」とか、「品質が悪い」とか文句のオンパレードです。それは困難な状況に立ち向かった人に対して、自分は椅子に座っているだけの人がやっていることです。良かれと思ってやってると思いますが、「責任の追及」や「批判」をして世の中の何が前進するのでしょうか?

ここで「いやいや、批判は世の中の進歩には必要でしょ」と思った。だからラベルを貼り直して、記事中の「批判」は自分の語彙でいう「世の中のためにならない文句とか個人攻撃」を指しているんだなあ、となんとなく結びつけた。なんとなくで良いと思う。

主語を大きくしたり、語を大雑把に扱ったりするのはしょうがない。厳密さと読みやすさと執筆スピードを捨てずに中身がある文章を書くってたぶん相当難しい。いまのところ自分にはできない。厳密さ・読みやすさ・中身があるのは教科書がいい例だろうけれど、あれは著者以外に編集者もいればレビュアーもいて、場合によっては刊行後読者からの誤字の指摘も得て刷り直して徐々にクオリティが上がっていく。ブログ記事ですべてを両立するのは不可能だと思うし、そこまでハードルを高めるべきではないとも思う。もっと自由に書いて、自由に読んでいいって話と関係あるかもしれない。

ちなみに、「こうやって指摘や批判がたくさん飛んでくるから矢面には厚労省が立たないといけないんだ」というツイートもあった。でもメディアは西浦教授とかTang大臣とか個人を前面に引きずり出している。天才天才って煽ったり、LGBTだいじめられっ子だって無関係な個人の属性でストーリー作ったりするの見るの苦手なんだよなあ。

「個人が力を持つ時代」がこういうのを意味してるんなら、あんまりありがたくねえなと思ってしまいそうになる。


  1. プログラミング言語は記号など厳密に書くための仕組みが整っているので例えとして使いやすい、あと単純に自分がプログラムを頻繁に書くので親しみを持っている。読む人に比喩の恩恵が伝わっているかは正直わからん。

  2. スコープといえば{カッコ}、カッコといえば…の連想で「カッコに入れる」という表現を思い出した。どこで見たかなーと思って検索すると国語教育について - 内田樹の研究室が出てきた。この人の本は賛否両論あるけどブログはタダだし面白いから定期的に読んでいる。でもリンク先の「カッコに入れる」とこの記事の「スコープ」は無関係だった。

  3. 定義が明記されている専門用語についても、定義を再帰的にたどっていくと一般的な言葉での解説に到達するから、そこで勘違いを起こしてしまうことは頻繁にある。一義的な定義を正しく捉える必要がある場合は(数学とか)、練習問題などの形で具体例を繰り返して与えて定義のズレを直していく。

  4. 「この記事における『〇〇』は」とか「いわば『〇〇』」のようなことを言いたいときには、ただ「〇〇」のように単語を括弧で囲んで、「世間一般の〇〇の意味とは違いますよ」と示す場合がある(自分もよく使う)。これもスコープを限定する一つの方法だが、ちょっと使うぐらいにはあまりくどくならないので便利である。ただ括弧は他にもいろいろな意味を持つのでそこは注意している。